「プロフィール」の詳細版です。
私の提供している「習慣の履歴書®︎プログラム」のSTEP2に「自分史上最も詳細な自分史を書く」というコンテンツがあるのですが、今回それを参考に時系列でここまでの人生を振り返ってみました。


文量が多いので読むのにかなりお時間いただくと思います。ただ、コンサルもプログラムも「どんな人がやってるの?」という状況よりも、「人となり」が少しでもわかったほうがコミュニケーションが取りやすいのではないか?と思いました。プロフィール欄や参加された皆さんによる対談動画などをご参考の上、少しでも相互理解を図るキッカケになれば幸いです。
(大学3年あたりから「あまりにも長すぎる」と思ってごっそり端折りました。ご興味あればお会いした際に聞いてください!)




幼少期:幼稚園の連絡帳に「パンツ代」とよく書かれてました。

鹿児島県の、海と山と川と田んぼと畑に囲まれた、自然の中で過ごしました。

父親は中学の教員でバレーボール部の監督。幼い頃から中学生の練習を見学。休日は中学生と一緒に過ごしました。一方、幼稚園の中では全く目立たない存在。縄跳びできない、スキップできない、傘もさせない、靴紐も結べない、お弁当袋開けられない、しょっちゅうお漏らし・・・、かなり鈍臭い、不器用な園児でした。

(今、娘がこの世代なのですが、お友達も含め、明らかに私より優秀でしっかり判断できる子たちです。幼稚園の行事に参加すると、当時の自分の記憶が蘇ってちょっぴり恥ずかしくなりますが、人は時間とともに成長するものですね、笑)

小学校:3つの小学校へ。5年生で人生の方向性が決まりました。

父親の転勤で3つの小学校に通いました。
転校を繰り返す中で、友達と離れ離れになる寂しさや新しい環境でどう振る舞い、コミュニティに溶け込んでいくかを学びました。相変わらず不器用で運動が大の苦手。ただ、絵画や作文のコンクールでは毎年入選。
(父親は美大卒で美術の先生)ピアノや書道も習っており、毎年学級委員をやっていました。

3校目の学校に転校直後、最初の体育の授業が鉄棒の「さかあがり」でした。
小学校2年生から「自分はできない」と逃げ続け、新しいクラスになるたびに鉄棒が苦手な子を探して先生の視界から隠れてごまかす日々を続けていました。
ところが、新しく転校したクラスの子はみんな一発でさかあがりができたのです。

人生で初めて「自分だけができない」という体験。

転校生でただでさえ注目される中、いきなり自分だけができない。
その日から、誰もいなくなった真っ暗な校庭に母親と一緒に練習に通い始めました。
夜遅い時間に通ったのは、できない自分を誰にも見られたくなかったからです。雨の日も傘をさしてもらい、毎日泣きながら練習。親にサポートを受けてもなかなか体は鉄棒の上に上がらず、トボトボと親子で自宅に帰る日々。

しかし練習を始めて「2週間後」に生まれて初めてさかあがりができる瞬間を迎えました。

実はその様子を毎日担任の先生が鉄棒近くの教職員駐車場の陰から見守ってくださっていました。
次の日の体育の授業で、先生から指名を受け、みんなの前でさかあがりをすることに。
私ができないことを先生に隠してくれていたクラスの仲間から笑顔と拍手をもらい、新しい学校でクラスの一員として認められた気がしました。

「私はできる。」という、シンプルな信念。

「小学校2年生から3年間逃げ続けてきたことが、本気でやればたった2週間でできた」

この体験を通し、「自分は結果を出すのに他の人よりも時間がかかってしまうのかもしれない。でもやれば必ずできる。どんなに他の人より遅くても、できるようになるまで逃げずに努力し続ける」と心に強く誓いました。
どんなに困難でも、状況が厳しくても、逃げずにやり続ける。
それから40年経った現在でも、私のすべての行動の原点はこの小学5年のさかあがりに起因しています。

雑誌上での恩師との出会い。

そんな折、毎月楽しみに読んでいたバレーボールの雑誌の誌面にて、1人の先生の記事内容とさかあがりの原体験のエッセンスが重なっていると直感的に感じた出来事がありました。


「この先生に学びたい!」

幼く短絡的な動機であり、そもそも大学というところは何をする場所なのか全く理解していませんでしたが、小学校5年(10歳)の私は、将来の進路を先生がいらっしゃる早稲田大学に定めました。今思えば「単なる思い込み」に過ぎないのですが、その原動力が10年にわたって自分を鼓舞し続けることになります。



【小学校6年間を振り返って】純粋性が突破力につながる。

今思うと、大学ってどんなところなのかさっぱりわからない。でも決意してしまった。
現実では見えていない「知らない世界」に目標設定した初めての経験です。
この出来事から、10年間も思いを持ち続けた自分を振り返ると、幼き頃の純粋な思いがどれだけパワーを持つかを感じざるを得ません。

今私には幼い2人の娘がいますが、幼き子どもたちの一挙手一投足には、無限の可能性が溢れているとずっと念頭におきながら、日々の育児に向き合っています。「できない」を責めるのではなく、「できた」を一緒に喜ぶ親でいたいものです。



中学校:父親と一緒に修学旅行に行ったことがある方はいらっしゃいますか?

普通ではあまりないケースですが、父親が勤務している中学校に入学。
入学式の直後、「学校内では親子ではない」という通達を父親から職員室で受けました。
その後、3年間美術の授業を習い、中2では副担任。修学旅行も引率者として同行。
そしてバレーボール部の監督と選手として毎日を共に過ごすことになります。
学校では「先生と生徒」、でも一旦家に帰ると「親と子」の二重生活。
多感な時代に親や周囲に対してどのようにコミュニケーションを取るかを試行錯誤。
ものすごく貴重な経験をしました。

山を走り、海に潜り、大自然と戯れた3年間。

良くも悪くも「ど田舎」の地の利を活用。
足が速くなりたくて毎日砂浜を走り、バレー部でエースアタッカーになりたくて、庭の木の枝に向かってジャンプを続けました。海で魚を釣り、お友達の家で牛や馬の出産に立ち会い、米や果物の収穫などを手伝う機会も得られました。
一方、当時の校内の風紀は乱れており、暴力事件も多く、複雑な環境。
時に、父親に注意を受けた先輩から呼び出され、腹いせに砂浜で殴られるといった不条理な経験もありつつも、けっこう伸び伸びと過ごせた3年間でした。

自分で決められなかった進路。

中学3年生。大自然の小さな学校から、特別枠で学区外の鹿児島市内の高校に進学するにあたり、校長先生・教頭先生らが何回か夜に自宅に来て、私の進路会議。壁越しにうっすら聞こえてくる声に耳を澄ましながら勉強していましたが、自分の意図しないところで、全く思っても見なかった高校を受験することになります。

その後の私は現在に至るまでずっと「自分の人生の決断には必ず自分が参加する」「自分の決めた選択を正解にしていく」といったポリシーを持っているのですが、それはおそらくこの時、受験する高校を「自分で決められなかった」体験に起因しているのだと思います。

高校:猛烈な受験戦争。殴られ、蹴られ、床を這いました。

中学3年間一度も模試で志望校に書いたことがなかった高校に進学。
たった1人でアウェイな環境(1500人の全校生徒の中で自分の中学出身者は0名。そもそも学校の歴史でも初。)に飛び込むも、人見知りやら緊張やらでなかなかクラスに馴染めず、成績は低迷しました。

時は受験戦争時代。「国立大学現役合格絶対主義」の学校方針に全く合わず、不完全燃焼な高校生活が続く中、高3の夏、とある雑誌で小学校5年時から憧れていた先生の記事に触れ、さかあがりができた時の10歳の決意を思い出しました。しかし当時の成績は合格ラインには限りなく遠く、「国立大学受験に向けて気持ちを集中しろ!」と学校側に受験に必要な調査書を書いてもらえずに受験挑戦の機会を失い、メンタルも揺れまくり、センター試験も大失敗に終わりました。

高校卒業後、浪人することが決定。進路指導室に報告に向かいました。
「頑張れよ!お前なら大丈夫だ!」と励ましてもらえると思ったところ、入室した瞬間、先生に無言で殴られ、蹴られ、「お前のせいで国立合格者数が減った。何やってんだ!」と罵声を浴びました。

私は床に転げながら、怖さのあまり顔を床に伏せ、小さな声で「すみません・・・」としか言えませんでした。
学校からバス停までの帰り道、悔しくてしばらく涙が止まらなかったのを覚えています。

絶対に見返してやる!

メラメラと憎悪の気持ちのようなものが湧き出てきました。ただ、この一件以降、自分の人生を否定されたような気持ちになり、ショックで自信を失い、周囲への強い劣等感が生まれます。
周りの目を気にしながら、下を向いて生きる生活が始まりました。

話が全く噛み合わず、「周回遅れ」になっている自分に気づく。

周囲の仲間は大学生になり、大学で新しく出会った人たちと新しい生活がスタート。
すっぴんだったクラスの女子が化粧をし、坊主頭だった野球部のクラスメートが茶髪になっていました。

一方、私はまだ「あり・おり・はべり・いまそかり」などと唱えながら古文の授業を受け、解の公式を使って数学のテストに臨む、要は昨年までの繰り返し。自分だけが別世界にいました。
友達と会っても「サークル?新歓コンパ?ゼミ?」知らない言葉のオンパレード。
聞かれる質問は「えっ、上原君、浪人なの???」
ファーストフード店も、ファミレスも、どこに行っても高校時代の仲間がアルバイトを始めており、会うたびに「えっ!?浪人してるの!?頑張ってね!」

日々増してくる敗北感。孤独感。
だんだん仲間外れに、また小馬鹿にされている気がしてきて、勝手に学校を恨み、友人を疎外し始めました。

浪人時代:「オセロ真っ黒」性格豹変、痛いヤツでした。

1浪目。高校時代は、当時の学歴社会や国立大学重視の学校教育に反発。
「自分の人生は自分で自由に選択していくこと」を伝え続け、多くの仲間に囲まれていました。
しかしその生活から一転。「クラスの中で自分1人が浪人生」になり、仲間たちは新しい環境へ。

その屈辱感や疎外感、また先生に殴られた自己否定感などから、「人を偏差値で判断する」という、今までの自分では信じられない全く真逆の考えを持った浪人生活が訪れます。思うようにならない自分の現状を精一杯自己肯定するために、周囲との断絶を図ったのだと思います。

大きくコミュニケーションが変化してしまった私を見て、友人は私から距離を置くようになりました。
孤独を感じながら意固地に受験に向けて頑張る生活。
しかしメンタルが疲弊し、試験になると体調を崩すように。

結局、苦労した1浪目の結末は「試験日当日も熱発し、受験すらできない」というゴールを迎えます。
初めて手にした早稲田大学の受験票を鹿児島の自宅のベッドで握り締めながら号泣。
まさかの2浪目に突入することになりました。

春の公園のブランコにて。〜10歳の原点に立ち返った日〜

まさかの2浪に突入。ぽっかりと心に穴が空いた3月。
私は1冊の本を片手に、家から少し離れた公園のブランコで桜を眺めながら自分と向き合いました。

「何のために大学に行くのか」「どんな人生を歩みたいのか」

おそらく2、3時間考えた気がします。
そして、そこで暗闇の小学校の校庭で鉄棒に向かい、庭の小枝に向かって飛び続けた「10歳の原点」をまた思い出しました。

自分は変わらねばならない。

落ちた結果は仲間のせいではない。すべて自分の責任。
コンビニのレジに立つ友達の「頑張ってね!」という言葉を「バカにされた」と解釈したのはすべて自分。
学校を批判しているのも自分が勝手に決めたこと。
先生だって、受験戦争をともに戦ってくださる中で、プレッシャーを感じていらっしゃったはずだ。

すべての事象は自分に責任がある。

この1年間の周囲への失礼な態度や塞ぎ込んだ生活を打破することを決断。
まずはその公園にあった鉄棒を握りしめ、歯を食いしばりながら何度も何度もさかあがりをしました。

その後、一人一人の仲間たちに会って謝罪の気持ちを伝えたところ、最高の仲間たちはこんな小さな存在の自分を温かく迎え入れてくれました。相変わらず、「卒論」「中型免許」「ゼミ合宿」など未知の世界のワードを発していましたが、あまり気にならなかったのを覚えています。

そして時は年号が変わり、平成元年。家族や仲間、そして10歳の自分から多くの応援をもらって、生まれて初めて東京へ。先生が待っている(と勝手に思い込んでいる)大学受験に挑みました。

【受験生時代を振り返って】
暗黒のオセロが一気に白に変わった2年間

受験一辺倒の高校生活から、暗黒の浪人時代。本当に素晴らしい経験でした。
人を偏差値の優劣で判断するという、今でも信じられない状態に自分が追い込まれた体験。
ここでの学びが「人を年齢や学歴、役職などで判断しない」という今の自分につながっています。
2浪目の春、よく自分自身としっかり向き合い、軌道修正できたなぁと。
やはり家族の応援、そして、10歳の原点や「人生の目的」に戻れたことが大きかったと思います。

大学:10年の想いを何十枚もの便箋に綴り、告白しました。

大学合格。東京での一人暮らしが始まりました。

「毎日タオルや桶を持って銭湯に通った」という父親の大学時代の話を聞かされていたせいか、学生課の掲示板に数多くあったマンション紹介には目もくれず、築40年以上の風呂なしオンボロアパートに初の住処を決定。
給湯設備はなく、洗濯機も屋外。壁が薄すぎて、夜に鳴った電話の受話器に寝ぼけて飛びつくと、隣の部屋の留守電メッセージ・・・。平成の時代に、昭和30年代のような学生生活がスタートしました。
でもいいのです。そんなことより先生に会えれば!ワクワクしながら履修登録に向かいました。

あれ?授業がない。

先生の在籍される学部に入学できたものの、1年次は先生の授業がないことが判明。
高校・浪人時に続いてスタートダッシュに失敗。またしても悶々とした日々の始まりです。
鹿児島弁の訛りや大都会東京の人の多さに圧倒され、再び高校1年や浪人1年目に経験した、「話せない・友達ができない・周囲にビビって動けない」といった悪循環ループに陥りました。
サークルにも入らず、アルバイトもせず、授業が終わると電車に乗って一人で東京の街を歩く日々。その日降り立った駅を記憶し、部屋に貼ってある路線図の駅名に丸をつけていくのが日課でした。何やってたんだか。。。

10年の想いを蹴散らす、非情の通告。

耐えて、待って、我慢した1年間が終わりに近づき、大学2年進級時。
いよいよ2年生から始まる先生の研究室への面接に挑む準備を進めていたところ、「人気で倍率が高いため(先生のゼミだけ)面接選考は中止。コンピューター抽選で選抜」と掲示板に告知されました。

コンピュータ抽選!?何じゃそりゃ!
私は先生に学ぶために10年もかけて花の都・大東京に出てきたのです。
面接で想いを伝えることもできず、ランダムな抽選でこの後の学生生活が決まるなんて!!!
何が何でも先生の研究室に入らねば!と、受験以降全く使っていなかった頭を使って考えました。


<取った行動>
先生のご自宅の住所を調べ、便箋数十枚に小学校5年生からの想いを書き綴り、ポストに投函。


抽選の結果を待ち、いよいよ発表日。
掲示板に「J9C035」私の学籍番号がありました。

2浪した大学合格時より嬉しく、公衆電話で涙を堪えながら鹿児島の両親に報告。
苦節10年、10歳からの夢をついに叶えることができました。



ついに、先生の研究室へ。

初めての授業の後、先生に部屋に残るよう声をかけられ、ドキドキしながら初めて二人での対話。
手紙を読んでコンピューター抽選から特別に除外し、合格させていただいたことを知らされました。

それから、ほぼ毎日のように夜ご飯を先生のご自宅でいただきながら、直接指導が始まりました。
先生が学生時代、早稲田が文字通り「田んぼの稲の中に学校があった」頃の話、渡米したオハイオ時代の話、男子バレーでオリンピックの金メダルチームを作った話、何もかもが刺激的でした。

将来の夢は先生の跡を継いで大学教授になる。

自分のように田舎者で、不器用で、メンタル弱くて、回り道しても「努力することで想いは実現するのだ」「人生は自分で切り拓けるのだ」ということを、将来学生たちに伝えられるような人生を送りたいと強く願いながら、先生との二人三脚の日々が始まりました。


先生との最後の会話。


平成2年9月4日。
先生がガンで急逝。享年46歳。


出会ってわずか5ヶ月の出来事でした。



私が10歳から持ち続けた10年間の想いはあっけなく崩れ去りました。

夏休みに入った7月。先生が体調を崩され極秘入院されていたとき、病院に呼ばれました。
「今体調が良くないから秋以降のゼミに間に合わない可能性がある。上原を中心にみんなで力を合わせて研究を進めておいてくれ。他の学生たちには後期授業が始まるまで入院していることは話さないように。」といったお話でした。後に伺ったのですが、その時に先生は人生の終わりを覚悟されていらっしゃったそうです。

9月4日、私は実家の鹿児島に帰省しており、その日の夕方、フジテレビでのニュースで流れた先生の訃報も見ていませんでした。毎日のように先生との話を家族にしながら、夢が叶った喜びを伝えていました。その夜22時ごろだったでしょうか、、、同じ学部のバレーボール部の先輩から「やっと連絡先がわかった。すぐ東京に戻ってこい!」との電話。先生が亡くなられた話を伺いました。

残暑が厳しかった9月6日のお葬式。私は空路東京に戻りました。つい2ヶ月前まで毎日のように歩いた先生の自宅に向かう道のり、黒い喪服に身を纏う行列が見えましたが、「なぜその行列があるのか」理由がわかりませんでした。実は、先輩からの電話を受けてからの記憶がほとんど残っていません。
「最後のお別れに、先生の顔の横に花を添えてほしい」と言われ、至近距離まで足を運びましたが、涙で視界がなくなり、お顔を見ることができませんでした。「学生たちに校歌を歌ってもらって自宅を出たい」との遺言で、最後棺を運ぶ一人になりましたが、その記憶もうっすらとしか残っていません。
今にも倒れんばかりの私を(この後出てくる)水口栄二さんがしっかり脇を握り、横で支えてくださっていたとの事後報告をゼミのメンバーから聞きました。

人生が「詰み、生き返った」瞬間。

夏休みが終わり、後期授業が開始。私たちの研究室は解散。メンバーはそれぞれバラバラのゼミに分かれました。私は「学ぶ目的」がなくなり、放心状態。大学を辞めてアメリカに行くことも考えました。でもそんな勇気も決断力もなく、ただ惰性で学校に行き、先生のいない研究室の前に立ち尽くし、無言で自宅に戻る毎日でした。
当時お酒が全く飲めなかったくせに、近所の居酒屋に一人で通い、意識を半分失って千鳥足で家まで帰る。その経験を通して、私は「薩摩の酒豪」として生まれ変わることになります。

悲痛に暮れる私を励ましてくださったのは、私より何倍、いや何百倍も悲しいはずの先生の奥様やご家族でした。何度もご自宅で今後についてのお話をさせていただきました。

「先生の分まで人生を生きる!」

周囲の先輩、仲間たちからも多くの応援を得て、学生生活に復帰。
この先の人生。向かう方向が全く見えない中で、とにかく何か動かねばならない危機感を持ちました。

*あれから30年。今でも毎年墓前への挨拶を欠かさずに続けています。
*ただ、先生の存在から精神的に自立するまで、25年ほどの月日がかかりました。

人生の師匠と仰いでいた先生が急逝されたわけですが、生前、一度だけ先生に猛烈に叱られた経験があり、これが自分の人生に大きく影響しています。ここではその学びのみ紹介します。(詳細ご興味あればぜひ直接お話しさせてください)

再び訪れた劣等感。野球部とのBBQを逃げきれなかった1日。

後に近鉄バファローズの中心選手として活躍、元オリックスの打撃コーチでもある水口栄二さんとの出会いがこの出来事の中心の話です。水口さんは甲子園で準優勝、夏の選手権での最多安打記録は30年以上経った今でも破られていません。大学でも野球部の主将。学内でも一際オーラを放つ、眩しすぎる先輩でした。

(話を端折ります。要は先生に「自分のあり方」についてこっぴどく怒られました。)

怒られた理由は、私が一歩を踏み出す勇気を怠ったことについてです。自分で勝手に都合の悪い方向に考えて行動を止めてしまうこと、ビビリ癖がありすぐに基準を下げることなどを、電話口での一瞬の態度(言葉)で見抜かれて、先生に叱られ、諭され、学びを受けました。わずか5ヶ月での永遠の別れになったわけですが、この1日の学びだけで一生分の指導を受けた気がします。「本気で叱ってくださった」先生に心から感謝するとともに、私の人に対峙する際の基準はこの「野球部とのバーベキュー事件」で培われました。

実は、この思考・行動パターンはこの経験の後も長年自分を苦しめました。
この失敗を繰り返すたびに「先生から唯一叱られた経験」を思い出し、自分を鼓舞し続けたのですが、それでもまた何百回も失敗を繰り返しました。
この時から約30年苦しみ続けてきたパターンを、今回「習慣の履歴書」=自分のプログラムを自分が実践する中で、完全に打破した感覚があります。同様に、今回プログラム参加した仲間からも「35年間変えられなかった思考の習慣が大きく変わった」という感想をもらい、同じ感動を味わえてものすごく嬉しかったです。

話を戻しますね。

先輩の推薦で大学の県人会の代表になり、変化が到来。

塞ぎ込んでいた生活が終わり、新たな環境に飛び込むことで仲間が増えていく喜びを味わいました。やはり「誰と一緒にいるのか?」「どこで時間を過ごすのか?」といった環境がかなり大事です。
ここで「このまま夢破れた大学生活」ではなく「ここから夢を叶えた大学生活」にしようと決意し、大学3年の冬休みから、翌年地方から上京する後輩たちの新入生歓迎会のプロジェクトに参加。準備で奔走し始めます。

「自分のように一人ぼっちで上京してくる後輩たちに対して、学生生活のスタートを寂しい思いで過ごしてほしくない。いいスタートを切ってほしい」


周囲がリクルートスーツを着て就活を始める中、連日テレアポ・飛び込み営業。大手町・新宿・・・と企画書を持って企業を訪問。内定獲得ではなく、パンフレットへの広告出稿をお願いするために朝から夜まで仲間たちと足を運び、企画を練り続けました。

小田和正さんとの出会い。

当時「ラブストーリーは突然に!」が大ヒット。人気絶頂だった小田さんの講演会を提案。何度も企画が跳ね返される中、粘りに粘って出演交渉。見事快諾いただき、1500人収容のホールに3000人が集まる大騒ぎに。マスコミ各社の取材対応や長期間に渡って1つのプロジェクトを成し遂げる経験など、多くを学びました。
当初は「ビッグネームを連れてきた方が集客にとって都合がいい」という、完全に自分たち都合の態度をとっていたため、関係各位にボキボキに鼻を折られました。しかし、小田さんの所属事務所や広告協賛企業の皆さまからのご指導をいただき、相手目線に立つことの重要性や、期待を超える提案と行動が信頼につながることを学ばせていただきました。

イベントは大成功。終了後、小田さんにお礼のご挨拶と講演料を渡しに行きました。一般的なギャラからすると吹けば飛ぶような、でも学生にとっては大金で、一生懸命捻出した「11万1111円」が入った封筒を手渡しました。(今思うと、桁が1つ少なかったですね。。。)

「ありがとう」

笑顔で受け取ってくださった小田さんは、その封筒をそのまま私に手渡しました。

「こちらこそ素晴らしい機会をありがとう。これで今夜はみんなで美味しい酒を飲んでください」

小田さんはこの講演料を受け取らなかっただけでなく、全国のファンクラブの会報の表紙でこのイベントの件を取り扱っていただき、さらに国立代々木競技場でのコンサートにもロイヤルボックス席にご招待いただきました。さらにはコンサートのMC時、大観衆の前で私たちの紹介をしてくださいました。スポットライトを浴びる中、1万人のフアンの方々から割れんばかりの拍手と笑顔をいただきました。

半年以上に渡って昼夜を問わず動き続け、何度も悩み、凹み、でも全力で作り上げたイベントの打ち上げ。
「今夜は小田先輩にいただきます!乾杯!!!」とみんなで成功を分かち合った夜。
「前を向いて一歩踏み出しました!」と天国の先生に1つ成果報告ができた気がしました。

小田和正さんのファンクラブ会報の表紙。
1面丸ごと私たちとのイベントについて記載いただきました。


卒業論文のテーマは「応援」について。

これまで多くの方に応援していただいた御礼を、これから自分が社会に返し、そして後輩たちに繋いで行くこと。そのために、目の前の一人ひとりの人生を応援していくことを大学卒業にあたり決意し、卒業論文も(かなりレアテーマですが)「応援」について執筆。早稲田での4年間が終わりました。

*ここまで読んでいただきありがとうございました。
こんな長くて独りよがりな文章を読み続けてくださったことに心より感謝します。この後もかなり面白い人生が続くのですが、相当割愛して書いていきます。もしご興味ある奇特な方は直接お話しさせてください。(直接話す方が何倍も「変人伝説」を感じていただけると思います、笑)


20代前半:抱腹絶倒。人生で一番空回った3年間。

先生の奥様との話し合いで、大学教授への道ではなく民間企業への就職に進路変更。
他の仲間達より遅れること約半年。就活を開始。ご縁あって小田さんが在籍するレコード会社に入社することになりました。(難関だったこともあり、内定後かなり天狗になっていた状態から、その後転落していく話をぜひいつかさせてください。)
しかし、喜びも束の間。配属部署は全く想定していなかった経営管理本部。他部署に行く予定だった私は、思い込みが激しく、自分のキャリア理想を描きすぎており、またしてもスタートダッシュで空回る経験をしました。

笑顔を作り、声を出し、から元気で出社するも、心の中では悩みまくり、悶々とした日々が続きました。ただ、素敵な先輩方や多くのアーティストの個性や才能との出会い、流行を生み出すためのプロモーション戦略などに触れ、とても刺激の多い日々でした。

自社レコーディングスタジオ(当時)にて同じ部署の先輩方と。(中央:私)
ビートルズのプロデューサーより譲り受け、
ローリングストーンズ、スティング、ポール・マッカートニーなども使用したコンソールの前で。
ロンドンから船で日本に運ぶ過程に「一瞬だけ」携わりました。

暖炉事件、女子トイレ事件、ひまわり事件、、、

たった2年弱しか在籍していなかったのに社内でいろんな思い出を作り、その都度先輩方に助けられ、何とか社会人としてのスタートを切ることができました。

*事件詳細はここでは割愛。「この時の話をしてほしい」と毎年講演依頼をいただく企業様や学校が複数ありますので、おそらく普遍的な学びなのだと思います。

このレコード会社時代を振り返ると、キャリアを急ぎすぎて焦る日々。
自己正当化、無責任な行動、短期即物的思考、他責の発言・・・・。ありとあらゆる失敗を重ねました。
現在、企業研修で若手社員の犯す勘違いやミスを多くの企業で伝えていますが、当時の自分は「それらすべてのミス」を見事に、忠実に、実行していました。

そして、大好きで入ったレコード会社をまさかの1年10ヶ月で退社。当時は終身雇用時代。親には心配かけたくなくて言えませんでした。退職後、たまたまつけたテレビで視聴した「ドミノ倒し」の30秒くらいの映像。それを見ながら、なぜか「ここに自分の探しているものがある」と直感で感じ、番組出演者のオーディションを受験。5回の審査を経て、チームリーダーとしてドミノ倒しの世界記録に挑戦する機会を得ることになります。

ここで人生においてかけがえのない財産を得て、人生の軸が定まったのですから、人生を変えるターニングポイントって、ある日突然やってくるものなのかもしれませんね。

チームリーダーとして、当時オランダが持っていたドミノ世界記録に挑戦。
筆舌に尽くし難い、かけがえのない珠玉の経験でした。


真冬の雪に囲まれた青森県の体育館。館内の室温はマイナス6℃。

38名のメンバーとともに、長い日は1日20時間の作業。メンバー同士の喧嘩・脱走・病気・焦り・・・
世界記録挑戦への過酷な戦いの中で、多くの仲間の人生の背景や心の機微に触れました。
1ヶ月間雪の中での合宿生活。自分の内面とも真剣に対峙できたプライスレスの経験でした。

命懸けで挑んだ戦いの体験談は、その後の多くの学生たちに講演や飲み会などで語り継がれていきます。そしてその後、ドミノの番組収録DVDを一緒に見て、私の話を聞いてくれた学生が次々と一歩踏み出す行動を起こし、数々の感動ドラマが誕生。自分の経験という1個のドミノが次々に多くの後輩の生活に伝播していく、素晴らしい体験をさせていただきました。(この当時の話も今まで何度となくオファーをいただき、講演させていただきました)

本番で倒れるのを「想定」して、1個1個丁寧に色を塗って立てていきます。
ちなみにこの絵は5万個のドミノで描いた「津軽凧」。
このドキュメントはTBS系列全国ネット(2時間特番)で放送されました。
(DVDあります。是非一緒に見ましょう。)

20代後半:全財産80円。2週間水道水で生活しました。


ドミノ世界挑戦から帰京後はしばらく無職。全財産80円時代。お金がなくて水道水を飲み続ける生活も体験。タンスの下から500円玉が出てきて嬉しすぎて半泣きでマクドナルドに駆け込み、てりやきマックバーガーセットを頼んだのは懐かしい思い出。今ではほぼ口にしないファストフードもこの時は極上のご馳走でした。

こんな状況ながら、日々を楽しんでおり、心は全く折れていないものの、ぶっちゃけた話、交通費もなく、行動が大幅に制限。時代は就職超氷河期。転職活動も気が乗らず、再びモラトリアムに陥っていました。

ハローワークで「14番さん」と呼ばれた時の衝撃。

失業保険受給のために通っていたハローワークにて、名前ではなく番号で呼ばれました。(個人情報に対してまだ厳しくない時代。公共機関でも「名前」で呼ばれることが多く、逆に自分のことを「番号」で呼ばれる機会はほとんどなかった)「体も心も元気なのに、自分は何やってるんだ。その前に自分は14番なんかじゃない!」と奮い立ち、復活に向けてまた一歩を踏み出します。

27歳で転職。ビジネスの世界に復帰。「やりたいこと探し」の長いモラトリアムが終了しました。


そして28歳、「1冊の本」、そして研修との出会い

読破するまで40回くらい睡魔に負けて挫折した「7つの習慣」。いつの間にか積読状態になっていたこの本のセミナーを、当時会社に出入りしていたリクルートの営業担当から紹介されました。「いい研修なので受けてみては?」ではなく「ずっと上原さんと話をさせてもらってきて、上原さんはこの7つの習慣の生き方を体現している。よって受講するだけでなく、ファシリテーターになるべきだ」と強く言われました。半ば社会からドロップアウトしているような自分に対して、お褒めの言葉をいただき、まんざら悪い気もせず興味本位で受講。そこで、ドミノをはじめとする今までの経験が「成長の連続体」というモデルですべて繋がっている事実に気づくことになります。お恥ずかしながら受講中に感動で涙を流してしまいました。

確かに今までの私の発言や発信と著しく考え方が似ていました。ただ、正直なところ、「体現している」ような発言を商談の場では行っていたものの、実際は「わかっているけど体現できておらず」、自分の不甲斐なさにものすごく悩んでいた時期でした。

「知ってる・言ってる、じゃなくて、実際に本気で行動しよう!」

同じような苦悩の状態をグルグル回り続ける、納得のいかない人生と決別すべく、ファシリテーターになって実践することを決意。1998年、当時最年少で社内ファシリテーターライセンスを取得。その後、3000回を超えることになる、リーダーシップやキャリア構築などの講演や研修の基礎土台となりました。
ちなみにこの7つの習慣の3日間のセミナーを1年半で11回リピート受講。(ファシリテーターはオブザーブ参加できたのです。)大阪で開催される時は、お金がないのでヒッチハイクで大阪まで行き、3800円の窓なし簡易宿泊所に宿泊。昼間はリッツカールトン大阪での豪華なセミナーに参加し、終わって帰る場所は・・・。昼夜の空間のギャップに苦笑いし「いつかはリッツカールトンに泊まるぞ!」と思いながら湿った畳の上に布団をひいて寝ました。(後にアメリカ・オーランドのリッツカールトンの研修に招待され、1泊10万円以上の部屋に1週間無料宿泊することになります)

何もかも中途半端で現状に満足していなかった自分にとって、この頃から習慣化という旅が始まりました。

7つの習慣®︎のファシリテーターワークショップ修了証。
故コヴィー博士のサイン(左)に今も身が引き締まる思いです。
(現在は資格不所持のため、ファシリテートは行っておりません。)

30代:超ハードワークのビジネス生活。きつく、楽しく、駆け抜けました。

30歳、3度目の転職。三井物産などから3億円の出資を受けたスタートアップ企業の創業メンバーとして参画。ところが、ここまでロクにビジネスの基礎土台を作ってきていなかったため、マーケティングや戦略に関しての用語もわからず、周りが優秀すぎて自分の意見も出せず、もう何度目でしょうか・・・またしてもスタートダッシュに躓きます。入社後、プレッシャーによるストレスで半年間変な咳が続き、体重も同じく半年間で16キロ増。ヘロヘロになりながら連日深夜2時、3時まで働き、新規事業の立ち上げを行いました。

今までのヘッポコな自分から変わるため、逃げるわけにはいかない。

今振り返っても、人生の大勝負をかけた戦いの1つでした。深夜1時になぜか出前営業しているオフィス近くの中華料理屋のチャーハンを連日頬張りながら(16キロ太るはずだ)みんなでホワイトボードを前に新規事業立ち上げに向けて議論が続きました。大変だったけど、メンバー全員燃えていたし、ものすごくエキサイティングで貴重な思い出です。

創業から3年。2003年ごろから、ここまでの習慣化の積み上げが目に見える成果となって表れ始め、状況が大きく変化していきます。

ビジネスが軌道に乗り、新規事業立ち上げに成功。事業V字回復の起爆剤となった、映画「踊る大捜査線」とのタイアップの軌跡を全社員約1000人の前でプレゼンテーション。社内アワードのグランプリやベストマネジャー賞など多くのタイトルを獲得。新卒採用担当者としても6年間で約1800名の大切な仲間の自社採用に成功。両国国技館や東京国際フォーラムなど大きな舞台での登壇も体験しました。
以前はキオスクでガムも買えないほどの人見知り。数年前まで職なし全財産80円。家に引きこもってゲームで馬を育てていた自分が、ようやくビジネス社会の仲間入りをした感がありました。

2004年1月1日元旦の深夜、初めての生放送出演

ご縁あって、くりぃむしちゅー上田晋也さんのラジオ番組にレギュラーゲストとして出演開始。
昼間は会社員、夜はラジオの二刀流生活。そこから、「ガイアの夜明け」半年間の密着取材、読売新聞「上原隆の就活FAQ」など5年間にわたる連載開始。そしてダイヤモンド社から3年連続で本の執筆と、メディアの方々との協働が始まります。

その中でも、ラジオはその後、現役会社員として初めてのオールナイトニッポンパーソナリティーへ。番組企画から派生し、フォーライフミュージックよりCDデビューの体験も得ました。メディア出演や取材が続き、同時に年間200回近い講演での登壇。全国を飛び回る慌しい生活。ラジオや新聞などでの相談メールも、のべ2万通以上いただきました。寝る暇もない日々でしたが、ものすごく充実していたし毎日が楽しすぎました。

そんな状況下においてもライフワークの学生支援は継続。手弁当で全国の学校を周り、キャリア支援。毎晩のように居酒屋でお互いの人生について語り合いました。就活生による箱根駅伝、全国の大学生が軽井沢に集結してのアフガニスタン支援イベントなど、習慣化の学びを机上の空論で終わらさず、実生活に落とし込む事例を増やし続けたのもこの時期。その当時の学生たちは現在30代後半・40代になり、多方面で活躍中です。(ビッグネームになった後輩も多数。素晴らしいです!)

40代:またまたやってきた大混乱期。人生を模索し続けました。

自ら1つの節目と思っていた40歳・中途入社10年という区切りで、ついに会社組織を離れ、独立。
ただ、時はリーマンショック。多くの企業に逆風が吹き荒れる中、お決まりのパターンで今回もスタートダッシュ失敗。いや大失敗。またしても大きな学びの機会が訪れます。これだけスタートでコケるのは一種の才能ではないかと。
10代の浪人時代ならともかく、ある一定の成功体験を持った40代の大人がまたしてもマイナス連鎖で転落していくもどかしさに、メンタルもこの時期は相当揺らいでいきました。ところが、、、、

なぜか苦しさがピークになると悪循環がストップする不思議。

すべては周囲の方々のご縁とお力添えのおかげです。改めて思いますが、私は本当に「運がいい」。
人との信頼を積み上げることを意識してきましたが、苦しくなるたびに周囲の方々の応援の風(神風)が吹きました。「自力より他力」を痛感した10年間。思い起こせば、たくさんのメディア出演や出版なども1つとして自分一人で手に入れたものはありません。そもそも、「ほぼ全部」周囲からのお誘いやご紹介で恩恵を受けてきたのです。

プライベートでは45歳でついに結婚。さらには2人の娘に恵まれ、この上ない幸せを享受することになりました。40代後半、今まで仕事一辺倒だった人生が、家族中心の人生に大きく転換し、「働くこと」に関しての考え方が大きく音を立てて変化していったのがこの時期でした。

50代:メンタルの確立へ。生死と向き合う機会を得て、今後のライフスタイルが決まりました。


次女が生後37日で心臓の大手術。ドクターに「お父さん、覚悟してください」と通達された後、娘を手術室に送り出しました。そして実の父親のガン、さらには自分自身も46歳で亡くなられた学生時代の恩師と同じ病気が発覚。健康面で立て続けに大きな出来事が起きました。(ちなみに、娘の手術は無事成功。今では元気すぎるオテンバ娘として走り回っています)

私個人、入院・手術・全身チューブからの激痛に耐えるリハビリを行いました。時はコロナ禍で家族との面会も謝絶。でもこれら一連の出来事に際し、メンタルのブレがほぼない状態を経験。もう過度に悲観したり、セルフイメージを下げたり、パワーを失っていく過去の自分はいなくなっていることに気づきました。同時に、今まで学び続けた経験が1つにまとまった感覚を得て、人生のステージが変わったのをハッキリと感じました。

病院で告知を受けた時も、また手術直前の瞬間も、恐怖心がなく、逆に喜びや感謝の気持ちを持った自分がいたのです。

7時間の手術に臨む手術台の上にて、全身麻酔直前のわずか1、2分間、静かに目を閉じながらふと降臨してきた「出会った方々への人生の応援プログラムを作る」という思い。退院後、ここまでの学びの1つの集大成として「習慣の履歴書」が誕生。完成時、たまたまご縁のあった方々にお声がけし、一緒に学び、育てていただきました。そして参加された皆さんの生活が大幅に好転する体験を一緒に分かち合えて本当に幸せな1年間を過ごし、これをさらに次の一人、そして次の一人へと伝えていこうという決意が固まりました。

現在:初めてのホームページを作り、あなたと出会う

3歳と6歳の子供の育児中心の生活を送りながら、多くの法人・個人の変革の場に携わらせていただいています。ただ、以前のような馬車馬のような仕事人生は送っておらず、とてもいいバランスで生活できています。

今までの人生で繰り返し続けていたマイナスパターンの多くを打破し、心が乱れることがほぼなくなりました。心身の健康、また経済面・人間関係面など非常に安定した状態で2022年を迎えています。

毎日が幸せで、充実感もあり、同時に、もちろん壁や問題も次々に訪れています。
しかし、逆境に学びを得てきた人生。未来に向けて、障害に対する対処法はかなり会得できているため大きな不安はありません。今後、何かチャレンジする際も「スタートダッシュでコケる」はコント並みに経験しているのでおそらくまた来ると思ってます。ただ、目の前の事象に「いい」も「悪い」もない。過去の制約に縛られず、未来の人生をいかようにもデザインしていけることを自分の実体験から学んでいるので、引き続き楽しく、面白い人生が待っている気がします。

独立して12年。実はホームページを一度も作ったことがありませんでしたが、「どこかにいらっしゃる誰かと出会えるキッカケになるなら」と今回手作りで作ってみました。


余談ですが、もしよければ今後個別相談とかいらっしゃった際、「前に向かって働く人たちへの応援CD」(フォーライフミュージックから発売されたCD。kiroroさんやかりゆし58さん、川嶋あいさんなどの楽曲も入ったコンピレーションアルバム。実際2300円で店頭発売されていたものです)を無料プレゼントさせてください。私の楽曲も入ってますが「こんなに下手なのにプロのアーティストと横並びでよく出せたね」(完全に「放送事故」レベルです)と思うでしょうし、何かに挑戦される際、「失うものはない」と根拠のない自信が湧くと思います。ぜひ笑ってお聴きいただければ幸いです。


さて、それではかなり長くなりましたが、「人生の軌跡」を一旦締めますね。

私自身、これからも学びを止めず、日々精進を重ね、出会った方の無限の可能性を信じて、さらなる多くの応援・貢献ができるよう挑戦を続けます。

これからどんな方と出会うことができるのか、とても楽しみにしています。
お会いする日にお礼を伝えさせてください。
ありがとうございました。